但馬牛について
皆さんは「但馬牛(たじまうし・たじまぎゅう)」というとどんなイメージですか?
やはりそこは「お肉」、しかも「高級牛肉」ではないでしょうか。
ここ数年、テレビなどでも「神戸ビーフ」の中の一つのブランドとして紹介されているので、少しずつ全国的な知名度も上がってきています。
でも、どういうのが但馬牛なのかと聞かれたら、ちゃんと答えられる人は少ないはず。
ここでは但馬牛の素晴らしさをお伝えします!
記事提供:但馬牛ナビゲーター 藤村美香さん
文章校正:田中一馬
1 但馬牛の定義について
但馬牛は和牛の一種です
そもそも、日本で育てられている牛には、牛肉をとるために飼われている「肉用種」と、牛乳をとるために飼われている「乳用種(ホルスタインやジャージーなど)」がいます。国内で「肉用種」として育てられている牛のほとんどは「和牛」、つまり日本独自の『牛の種類』です。
そして、その和牛の中にも、「黒毛和種」「あか毛和種」「日本短角種」「無角和種」という、4種類があります。但馬牛は、この和牛の中の「黒毛和種」という種類です。
よく「和牛肉」と「国産牛肉」では何が違うの? と言われますが、和牛肉とよばれるのは、この4品種の牛肉のことで、それ以外の牛で日本の国内で生産されたものが国産牛肉ということになります。(一般的にはホルスタインの雄牛を去勢したものが主流となっています。)だから、日本の牛が外国で育っても「和牛」のままだし、反対に外国の種類の牛でも日本で育てば「国産牛」になるというわけです。
「但馬牛」の定義について
同じ「但馬牛」と書いても、生きて育てられているときは「たじまうし」、お肉になると「たじまぎゅう」と読みます。現在、「但馬牛」と定義されているのは、「兵庫県産の黒毛和種」のお肉のことです。
お肉には、霜降りの入り方やお肉の歩留まりなどでランクがつけられていて、その一定のランク以上の但馬牛が「神戸ビーフ」とか「神戸肉」「神戸牛」と呼ばれます。
言いかえれば、但馬牛でなければ『神戸ビーフ』と呼ばれないのです。
日本全国の和牛の元祖
みなさんの中には、但馬牛が、神戸牛や松阪牛、近江牛などの「素牛」とか、「元祖」だとかと見聞きした方もあるでしょう。
牛を飼っている農家さんには、母牛を飼って子牛を産ませ、その子牛を売る「繁殖農家」と、その子牛を買ってお肉用に太らせる「肥育農家」があり、最近では自分の所で生まれた子牛をそのまま肥育する一貫経営も増えてきました。昔から、ここ但馬の地ではお肉ばかりでなく姿や繁殖能力も素晴らしい牛ばかりが生まれるので、肥育専門の農家はもちろん、自分の地域の牛を少しでも良くする目的で、但馬の子牛を買って帰るというところが全国にできました。
今でも、兵庫県内はもとより、松阪、近江の一部などで但馬牛の子牛を買って帰り、肥育が行われています。(「素牛」というのは「繁殖牛や肉牛の素になる子牛」のことを言います。)
一方、それ以外の地域では、過去に優れた但馬牛を買って帰り、自分の地域で改良を進めました。つまり但馬牛は和牛の「元祖」というべき存在。日本全国の黒毛和牛の90%、前沢牛・仙台牛・飛騨牛・佐賀牛などにも但馬牛の血が流れているのです。すごいことだと思いませんか?なぜこんな素晴らしい牛ができたのでしょうか?
2 但馬牛の歴史
但馬牛を育んだ環境
但馬牛はもともと田畑を耕すために飼われていて、小柄で小回りのきく但馬牛は良く働きました。そして、使われない時期は世話が大変なので、集落から離れた山の上の放牧場で飼われていました。村岡区では標高900m、小代区では集落から4km、標高差500mにもなるところへ放牧していたことが分かっています。
但馬は今でも「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉が伝えられるほど日本の中でも雨が多く、昼夜の寒暖差が大きいところ。山々は豊富な水に恵まれ、野草や薬草も豊富にありました。夏場、その柔らかく栄養豊富な野草や薬草を食べ、毎日険しい山を行き来することで、足腰が強くなっていきました。雪の多くなる冬には、「まや」とよばれる牛の寝床で飼われ、栄養が少なく硬い稲わらや干草を与えられていたので、辛抱強く、粗食にも耐えられる丈夫な牛になったのです。
但馬の人々は、大事な働き手の牛を家族の一員として同じ屋根の下の一角を牛の寝床にし、愛情深く育てていました。働き者で、子牛を生んで生活を支えてくれる牛を農家の人たちが毎日のように丁寧にマッサージしていたので、皮膚や毛は柔らかくなり、肉質も柔らかくなったといわれています。但馬には豊かな自然環境があり、愛情深い人々が暮らしていたことで、素晴らしい牛ができたといっても過言ではないでしょう。
古来から愛されてきました
但馬牛の素晴らしさは、古いさまざまな文献にも書かれています。『古事記』には、「天日槍が朝鮮から牛を伴って日本に渡来し、但馬出石に住みついた」と記されています。
約1300年前の平安時代に編纂された『続日本紀』には「但馬牛は、耕運、輓用(ばんよう・車ひき)、食用に適す。但馬は古来牛を愛養し、良畜を産す。」と記され、昔から食用にも適した良い牛が生産されていたことが分かっています。
また、約700年前に書かれた『国牛十図』にも、「骨ほそく 宍かたく 皮うすく 背骨まろし 角つめことにかたく はなの孔ひろし 逸物おほし」と書かれています。ここでいう「宍」とは、食べて硬い肉ということではなく、体つきの締まりのよさのことを言っていて、「骨は細いが筋肉の締まりがよく、皮膚は薄いが背骨がゴツゴツ出ていない。角やひづめは特に固く、鼻や口まわりが広くて健康、優れた物が多い」と、優れた体型、特徴、性質であることが記されています。
1583年の豊臣秀吉公大阪城築城の際には、全国から集められた牛の中でも小さい体ながら力強くて忍耐力もあり、温和で強健、大いに仕事がはかどったので、但馬牛は日本一の名牛と賞賛され、「一日士分」を与えられたと言われています。
これらのことからみて、但馬牛は昔から良い牛であったことが分かりますが、ただ、このことだけで現在の素晴らしい但馬牛があるわけではありません。そこには、牛と地域を愛した男たちの物語がありました。
3 改良の基礎を作った前田周助
奇跡的な但馬の地理的要因
道路も交通手段も発達していなかった時代、険しい山と谷に囲まれた但馬の地では、峠を越えて他の土地にいる牛との交配が困難だったので、その谷の中だけで交配が続けられていました。
これが偶然か必然か、優れた遺伝子が良い形で引き継がれる結果となり、但馬牛の血統(系統)を確立する要因となりました。これは「閉鎖育種」といって、現在では、他の地域との血統の差別化を保つため、意図的に限られた範囲での交配が進められています。
但馬には、良牛が育つ奇跡的ともいえる条件が揃っていたわけですが、今のような確立された資質改良の元は、今から200年も前の江戸時代に、但馬、それも今の香美町小代区に暮らしていたある人物の牛と地域に対するすさまじい愛情と、情熱、努力から始まりました。
但馬牛の重要人物「前田周助」とは?
香美町小代区には、但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人物が二人います。その一人が、「前田周助」という人で、今の但馬牛改良の基礎を作り上げたともいうべき人です。
この周助さんは、1897年の生まれで、小代区猪ノ谷という戸数10戸ほどの小さな村に暮らしていました。幼少から大の牛好きで知られ、良い牛を見定める眼を持っていました。そして、かなり頭がよく知恵の働く人で、今でいう「イケメン」だったようですが、相当の酒好きだったことも知られています。周助さんは、良いメス牛がいると、親のお金や財産を使うばかりか、親戚や姉の嫁ぎ先、さらには奥さんの実家にまで借金をしてその牛を買い求めました。いま重要視されている「系統」の基礎にしようとした母牛には、現在の価値にして2,000万円もの大金を支払ったといわれています。
周助さんが、ここまでして良い牛を揃えたのは、自身のお金儲けのためではありません。小代の谷は「蓑笠にも隠れる」ともいわれた小さな小さな棚田や山畑が多く、農家の暮らしはけっして楽ではありませんでした。
周助さんは、この谷の人が少しでも楽に暮らすには、どこよりも優れた牛をつくって高く売ることが一番の方法で、そのための仕組み作りをしようと考えていたのです。
「但馬牛」の前身「小代牛」の系統を確立
良い母牛からは、良いメス子牛が生まれることに気づいていた周助さんは、小代のすべての村々を訪ね歩き、子牛の生まれた場所や日付、所有者、父牛、その特徴まで、小代の牛全てについて記録していきました。時には村岡、養父まで牛を見に行き、良い母牛が見つかれば、大金を叩いて買い取り、中でも特に優れた牛は、小代の親戚や知人に預けたり、安くで売ったりして、小代の谷に残すようにしました。
そしてとうとう「但馬牛」の基礎となる母牛に出会います。この牛が産む子牛はみんな母牛に似た良い牛になり、またその牛も、良い牛ばかりを産みました。他の地域からこれらの母牛を売ってほしいと切望されましたが、周助さんは、絶対にこれらの牛を小代から出さず、「但馬牛」の一大系統を作ることに成功したのです。
海外で遺伝の法則が立証されるまでに、日本の小さな村のお百姓さんが、近親繁殖なんてことも知らずに血統整理をしてたんですから驚きです。
こうして周助さんの努力で増やされた小代の谷の子牛たちは、高値でも飛ぶように売れて各地に広がり、但馬の牛の代表となりました。
4 但馬牛血統の危機と復興
但馬牛純粋種が姿を消す?!
周助さんのおかげでその優秀な血統が確立された但馬牛だったのですが、周助さんが亡くなってから30年ほどたった明治時代後半に、「純粋種が姿を消す」という危機を迎えます。
明治に入り、文明開化の波が訪れると共に小柄な日本の牛を外国の牛のような体格の良いものに改良しようと外国種のオス牛を輸入して交配に使うようになり、国や県でも推奨されたことから、但馬でもその交配が進んでいきました。ところが、これが大失敗。生まれてきた牛たちは、気性は荒いうえに大喰らい、働きも悪く、小さな田んぼでの作業には不向きな大きすぎる体。さらに交配が進むにつれ、受胎不良や難産、病気が多発、肉質も低下し、思うほどの肉量も取れない牛になってしまったのです。また、外国種との交配とともに他地域の血統との交配も進み、良牛を生み出す血統が消滅しつつありました。
牛の世界では、優れたメスの血統集団のことを「蔓」と呼びます。これは、植物の1本の蔓には連なって同じような実がなるように、代々優れた特徴を持つ牛が生まれて血統が受け継がれるからです。周助さんが作った「小代牛」の一群は「周助蔓」と呼ばれていました。「周助蔓」の一部は、小代から出て他地域の牛の改良に使われましたが、2代目3代目となると、その優れた形質が失われたといわれています。
終戦後の復興と「あつた蔓」の誕生
終戦後、元の素晴らしい但馬牛を取り戻そうと本格的な取り組みが始まり、外国種や他の血統が混じった牛には交配をしないようにし、血統の良い牛だけを残して育てるようにしました。
そんな中、外国種や他の血統との交配を免れた周助蔓のメス牛が、たった4頭、小代の山深い里に残っていることが分かったのです。そこは、標高700mもある高地、他の村からも遠く離れた場所にあったために雑種化を免れることができたのです。これが閉鎖育種、まさに小代の地理的な特色が生んだ奇跡と言えるでしょう。そしてこの4頭を中心に、新しい血統の基礎作りが始まりました。
新しい但馬牛の血統は、「あつた蔓」と名づけられました。その基礎となったメス牛の名前の名前が「あつ」だったことと、その奇跡の牛が暮らしていた場所が「熱田村」だったのにちなんでいます。
但馬牛には「その血が入っていない牛はいない」とまでいわれる名牛がいます。「田尻号」というオス牛です。この田尻号も「あつた蔓」の中から生まれ、その蔓の特色を維持していくばかりか、全国の黒毛和牛の改良に大きく貢献しました。
自然的条件と人為的条件
昭和30年以前は、メス牛に重点を置いて改良をすすめていましたが、30年代に入って人工授精の技術が発達してからは、オス牛中心の改良へと変化していきました。メス牛だけの血統が良くても、優秀な形質が守れないことが分かってきたからでしょう。周助さんがこだわったのはメス牛でしたが、小代の谷の優れた血統のメス牛から生まれたオス牛も当然優れたものだったため、閉鎖育種により優良形質が強固になったと考えられています。
近親度合いが高くなると、優良形質も純粋に近くなりますが、それによる弊害も少なからずあるわけですから、育種学や遺伝学の知られていなかった時代から、その素晴らしい形質が最高の形で受け継がれた「田尻号」は、小代の閉鎖育種が生み出した「究極の牛」といってもいいではないでしょうか。
ただ、やはり血統の良いものが「たまたまそこにいた」だけでは、「田尻号」は生まれてきていなかったでしょう。そこにはもう1人の忘れてはならない人物、「田尻松蔵」さんの力があるのです。
5 和牛の原点名牛「田尻号」
99.9%という驚愕の数字
これは、今現在、全国で飼育されている黒毛和種の繁殖雌牛(母牛)のうち、「田尻号」の血統に繋がる牛の割合です(全国和牛登録協会調べ)。これは母牛だけの数字ですが、もちろん現在種オス牛として使用されている牛も、生まれてきた子牛も、この血統を引いて生まれてきているわけですから、全国の黒毛和種全体で見ても、ほとんどが「田尻号の子孫」というわけです。すごいですよね。
今でこそ、人工授精や受精卵移植などの技術が発達し、1頭の牛で一生のうちに何千頭もの子供の父牛となれるわけですが、田尻号は、種オス牛として使われていた12年間半のほとんどが自然交配だったにもかかわらず、全国に1,500頭近い子牛を残しています。
この田尻号の特に優れた点は、遺伝力の強いこと。殊に肉質に関する遺伝的能力は特段に優れたもので、世界に誇る和牛肉の原点は、この「田尻号」にあるといってもよいでしょう。
田尻号の経歴
田尻号は、小代村(現在の香美町小代区)の田尻松蔵さん宅に昭和14年に生まれ、その年に美方郡畜産組合に買い上げられたあと、一時は兵庫県にも預託され、昭和29年まで活躍しました。
松蔵さんも周助さんと同じように小さい頃から大の牛好きで、良い牛を見定める眼を持っていました。そして、田尻号の母牛「ふく江」に出会います。松蔵さんもまた資産家に多額の借金を頼んで、この「ふく江」を手に入れました。よほど素晴らしい母牛だったのでしょう。ふく江をたいへん可愛がり、毎日の運動やマッサージを欠かさず、良い草を食べさせるために、山を切り開いて草地まで作ってしまいました。田尻号はこのふく江が生んだ4頭目の子牛でした。
松蔵さんは、この子牛が良い種オス牛になると信じて疑わず、ふく江と同じように、毎日の運動と手入れを欠かしませんでした。この松蔵さんの牛を見る眼と日々の努力によって、田尻号は生まれて半年後には美方郡の種雄牛候補として認められ、現在の但馬牛の元祖となる第一歩を踏み出すことができたのです。
もし、「ふく江」が松蔵さんのもとにやって来ていなかったら、そして、松蔵さんが良い牛を見る眼に優れていなかったらどうなっていたでしょう。田尻号は郡や県の目に留まることなく去勢されてお肉になり、但馬牛は今のような名声を得られなかったもしれません。
まとめ
松蔵さんは田尻号を生産した功績が認められ、昭和30年に黄綬褒章を受章しています。また田尻号の功績をたたえて建てられた顕彰碑には、次のように書かれています。この名牛が生まれたのは偶然ではない。自然的な要因と、人為的な条件が融合しなければ叶わなかった。と。
上記でご説明したように、ここ小代の地が優良牛を生産するのに適した自然環境だったこと、そして、前田周助さんや田尻松蔵さんのように、良い牛を見極める力を持ち、優良牛生産に力を注いだ人々が、この小代をはじめ、美方郡にたくさんいたからこそ、田尻号は「和牛の関係者なら知らない人はいない」とまで言われる立派な牛になることができたのです。
但馬牛の今は、その条件の一つでも欠けていたら有り得なかったでしょう。そしてそのスタートは、小さな小さな村からの始まり。こんなすごいことが埋もれてることもビックリですよね。